宜昌市 (Yichangshi)
宜昌市(ぎしょう/イーチャン-し、)は、中華人民共和国湖北省に位置ある地級市. 宜昌は長江の三峡の下流に位置する港町であり長江クルーズや貨物船の寄港地である. 西陵峡の最下流部にあり、市街地の中には葛洲ダムが、その40km弱上流には三峡ダムがある.
宜昌の歴史は長く、長江の三峡の入口として軍事的に重要な地であった. 楚と巴の文化の発祥の地と言われる. 詩人・政治家である屈原や中国四大美人のひとりである王昭君の故郷とされる. また三国時代には夷陵の戦いの戦場となっている.
春秋戦国時代には楚の西境であった. 古名を夷陵と称した. 秦により南郡が置かれると、夷陵県は南郡に属した. 208年(建安13年)に後漢により臨江郡が設置され、210年(建安15年)には宜都郡と改められ、下部に宜都県、秭帰県、枝江県、夷道県の4県を管轄した. 三国時代の呉により、222年(黄武元年)に西陵郡が設置された. 後に再び宜都郡と改称され、南北朝時代には南朝政権に継承された. 南朝梁は宜都郡の上位区画として宜州を立てた. 西魏は宜州を拓州と改め、北周は拓州を硤州と改称している.
607年(大業3年)、隋が州制を廃止すると、硤州を夷陵郡と改めた. 夷陵郡は下部に夷陵県、夷道県、長陽県、遠安県の4県を管轄している. 唐が成立すると、夷陵郡は廃され硤州が設置された. 五代十国時代には高季興による地方政権である荊南の版図に編入されている.
清朝が成立すると、1648年(順治5年)に夷陵州は彝陵州と改称された. 1735年(雍正13年)には彝陵州は宜昌府に昇格した. 宜昌府は下部に東湖県、興山県、巴東県、長陽県、長楽県の5県および帰州、鶴峰州の2州を管轄した. 1876年(光緒2年)に清朝とイギリスの間で締結された『煙台条約』により宜昌が開港地に指定されると、翌年に税関が設置されて正式に開港している.
1912年(民国元年)、中華民国が成立すると、東湖県は宜昌県と改称され、興山、秭帰、巴東、長陽、五峰、鶴峰県とともに荊南道に属し、当陽、遠安県は襄南道に属した. その後道制は廃止となり、1932年(民国21年)に行政督察区制度が施行されると第6、第9行政督察区が設置された. 当該時期の行政区画変遷については湖北省 (中華民国)を参照. 1940年の宜昌作戦により宜昌は日本軍に占領され、占領は日本の降伏まで続いた.
中華人民共和国が成立すると、湖北省には8行政区が設置され、宜昌行政区専員公署が宜昌県、宜都県、枝江県、当陽県、遠安県、興山県、秭帰県、長陽県、五峰県の9県を管轄、同時に宜昌県城区及び近郊農区に宜昌市を新設している. 1951年、宜昌行政区専員公署は宜昌区専員公署、1955年には宜昌専員公署と改称されている. 文化大革命が始まると1968年1月に宜昌地区革命委員会が設置されたが、1978年8月に革命委員会は廃止となり宜昌地区行政公署が設置されている.
1992年3月、宜昌地区が廃止となり、地級市の宜昌市が成立した.
宜昌の歴史は長く、長江の三峡の入口として軍事的に重要な地であった. 楚と巴の文化の発祥の地と言われる. 詩人・政治家である屈原や中国四大美人のひとりである王昭君の故郷とされる. また三国時代には夷陵の戦いの戦場となっている.
春秋戦国時代には楚の西境であった. 古名を夷陵と称した. 秦により南郡が置かれると、夷陵県は南郡に属した. 208年(建安13年)に後漢により臨江郡が設置され、210年(建安15年)には宜都郡と改められ、下部に宜都県、秭帰県、枝江県、夷道県の4県を管轄した. 三国時代の呉により、222年(黄武元年)に西陵郡が設置された. 後に再び宜都郡と改称され、南北朝時代には南朝政権に継承された. 南朝梁は宜都郡の上位区画として宜州を立てた. 西魏は宜州を拓州と改め、北周は拓州を硤州と改称している.
607年(大業3年)、隋が州制を廃止すると、硤州を夷陵郡と改めた. 夷陵郡は下部に夷陵県、夷道県、長陽県、遠安県の4県を管轄している. 唐が成立すると、夷陵郡は廃され硤州が設置された. 五代十国時代には高季興による地方政権である荊南の版図に編入されている.
清朝が成立すると、1648年(順治5年)に夷陵州は彝陵州と改称された. 1735年(雍正13年)には彝陵州は宜昌府に昇格した. 宜昌府は下部に東湖県、興山県、巴東県、長陽県、長楽県の5県および帰州、鶴峰州の2州を管轄した. 1876年(光緒2年)に清朝とイギリスの間で締結された『煙台条約』により宜昌が開港地に指定されると、翌年に税関が設置されて正式に開港している.
1912年(民国元年)、中華民国が成立すると、東湖県は宜昌県と改称され、興山、秭帰、巴東、長陽、五峰、鶴峰県とともに荊南道に属し、当陽、遠安県は襄南道に属した. その後道制は廃止となり、1932年(民国21年)に行政督察区制度が施行されると第6、第9行政督察区が設置された. 当該時期の行政区画変遷については湖北省 (中華民国)を参照. 1940年の宜昌作戦により宜昌は日本軍に占領され、占領は日本の降伏まで続いた.
中華人民共和国が成立すると、湖北省には8行政区が設置され、宜昌行政区専員公署が宜昌県、宜都県、枝江県、当陽県、遠安県、興山県、秭帰県、長陽県、五峰県の9県を管轄、同時に宜昌県城区及び近郊農区に宜昌市を新設している. 1951年、宜昌行政区専員公署は宜昌区専員公署、1955年には宜昌専員公署と改称されている. 文化大革命が始まると1968年1月に宜昌地区革命委員会が設置されたが、1978年8月に革命委員会は廃止となり宜昌地区行政公署が設置されている.
1992年3月、宜昌地区が廃止となり、地級市の宜昌市が成立した.